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鍼灸の歴史

2020/02/02

1.夏・商・周(紀元前2070~紀元前240)
2.春秋・戦国時代(紀元前770~紀元前221)
3.泰・漢・三国時代(紀元前260~263)
4.晋・十六国時代・南北朝時代(265~557)
5.隋・唐・五代十国時代(581~907)
6.宋・遼・夏・金(916~1259)
7.元(1271~1368)
8.明(1368~1598)
9.後金・清(1616~1949)
10.中華民国(1912~1949)
11.中華人民共和国(1949~現在)

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上田

中医学・鍼灸の歴史についてです。興味のある人は読んでください。

鍼の歴史は石器時代に始まります。
もっとも初期の医療器具「砭石(へんせき)」は、
鋭利な石器のことで刺鍼治療の他、感染によって化膿
した局所の膿を出すのに用いられていました。

その後、製作技術の進歩に伴い、動物の骨・竹木・陶土などが使われるようになりました。
6500年ほど前の新石器時代の遺跡からは、さまざまな形の骨針が発見されています。戦国時代(紀元前400~紀元前200ころ)になると鉄針がつくられる
ようになり、その後金針・銀針が現れました。現代の針は、
ほとんどがディスポーザブルのため、
材質はステンレスでできています。

古代人は、まず暖を取るために火を使うように
なりました。後に火であぶった石や土を固めたものを
体に当てると、寒さを防ぐことだけでなく、
体の痛みが和らぐということに気付きました。
さらに、ある部分に軽いヤケドを起こす程度の熱刺激を与えると、症状が軽減することを発見しました。
これが、お灸の始まりです。


木の枝などを燃料にし、
体の一部をあぶったりして治療していたものが、
春秋・戦国時代になるとヨモギ(もぐさ)
燃料にするようになります。
古代では、灸の方法は燃料を皮膚に直接のせて火をつける直接灸でした。
ちなみに「せんねん灸」は間接灸です。

 

薬物療法を内治法というのに対して、鍼灸を外治法
と呼び、外治法には鍼灸の他に「吸い玉療法」があります。
吸い玉のことを「吸角」ともいいますが、動物の角で作った食器(角杯)を用いたために、このように呼ばれます。

日本の鍼灸の源は中医学にあります。
春秋戦国時代(紀元前770~紀元前403年)に、産業の進歩と
あいまって経済・社会・政治・文化・学術的思想などが
大きく発展しました。
このような歴史的情勢のなか中国医学の原理原則がまとめられ、陰陽五行論
気血水などの理論を骨子として紀元前2~1世紀ころに、
最古の中医学書である「黄帝内経」の原型が生み出されます。

黄帝内経は、黄河文化圏の祖である伝説上の聖王・黄帝とその臣下の名医・伎白との問答体
で書かれています。疾病の原因と病理を論じ、これに基づいて治療を施すことを述べた中医学の
代表文献です。

このころ医学理論ばかりでなく、
陰陽・五行・天人関係・形神関係など
についての進んだ研究がなされました。

中国伝統医学では、人体には気・血・水などが循環していて、人の体質や病気の状態は陰陽寒熱虚実などの対立する概念で表現されます。気血水の運行に滞りが
なく、陰陽や虚実寒熱のバランスが保たれていれば健康であり、そのバランスの乱れが病気を引き起こすと考えます。診断とは、そうしたバランスの乱れをチェックすることで、診断法には四診と呼ばれる
望診・聞診・問診・切診
があります。

黄帝内経は「素問」「霊枢」から成っていて、
「素問」は、人体の生理・病理・養生についての一般論と、薬物療法・鍼灸療法・
導引(運動療法)・按摩(マッサージ)や砭石(メス)による膿の出し方・皮膚病の外科療法
のほか、当時の世界的な医学水準を大幅に超えた内容が少なからず含まれています。
例えば、人体の骨格・血管の長さ・内臓器官の大きさと容量などの記載があり、これは現代医学の
数値とほとんど一致しています。「霊枢」は古くは「針経」と称したように、古代の九針(九種類の針)の説明、や鍼灸治療を行なうための診断法や実際的な手技などについて書かれています。
「素問」で述べられている一般基礎理論を、「霊枢」に則って治療するといった感じです。

「黄帝内経」の精神は、人の健康と病気とは、自然環境、
その土地の気候や風土と一定の関係があるという全体論的な
考え方に支えられています。つまり、人体のある部分に
生じた局所病変は、そのほかの臓腑や身体全体に影響を
与え、またその逆もあり、治療にあたってはその局所と全体の関係、さらには環境との関係を重視するというものです。

 

中国医学は中国文明の発祥とともに始まります。
紀元前1500年ごろに成立した国の殷(商)の都の後から20世紀になって
甲骨文(亀の甲羅や獣骨に刻まれた文字)が出土しました。

それには頭痛、耳病、眼病、鼻病、歯病などを表す多くの病名が甲骨文字によって
記載されています。

 

 

 

周(前11世紀~770B.C.)の時代になると、農業と天文学の発達に伴い、
季節や気候の変化と農作物へ与える影響や、人体と病気や、
健康と自然環境の変化との関係についても知られるようになりました。

 

 

 

 

周代には薬物の種類も豊富になり、「周礼」には五薬(草・木・虫・石・穀類)の記載があります。


 

 

 

 

古代中国の黄河文化圏では、人体の特定の場所には、経穴(ツボ)という反応点があり、この経穴を骨や針で刺激すると「ひびき」という特異な反応が起こることが発見されました。経絡は気血を運行させ、人体を滋養する働きを持つものです。

 

 

 

 

 

揚子江文化圏には、自然の産物を利用した薬物療法が発達しました。農耕を営んで定着するように
なった揚子江流域には伝説上の神農がいて、中国最古の薬学書「神農本草経」が記されました。

 

その内容は、治療可能な病気や症候は170種類に及び、今でいう内科・外科・婦人科・眼科・
耳鼻咽喉科・歯科などの領域にわたっています。

江南文化圏の医術は漢代にほぼ完成しました。
その集約が「傷寒雑病論」で、この本は、後漢の張仲景によって書かれました。
傷寒雑病論は戦乱で散失したため、現存するテキストは「傷寒論」と「金匱要略」です。
傷寒とは、六淫などの外邪が体の外から侵入して悪寒・発熱・
無汗・頭部項部の強痛・脈が浮脈などの症状を呈する外感病の一つをさします。「金匱要略」には、外感病以外の内科的疾病について記されており、証候分類に、臓腑の病理の理論が用いられました。

 

 

 

 

 

古代から3世紀までの時期の民家医家として扁鵲淳宇意華陀が有名です。
扁鵲は紀元前5世紀ごろの名医で、中国各地を巡遊し、その他の必要に合わせ、
帯下医(産婦人科)、老人の痺症(難聴・視力および筋力低下などの症状)の治療医、
小児科医として活躍しました。

 

 

 

淳宇意は、前漢の名医で、扁鵲と同様、望診(顔色や舌の状態を観察する方法)と脈診を重視しました。淳宇意が用いた診療録には、氏名・職業・
住所・病理・弁証治療および予後などが書かれ、
後世の病歴(カルテ)の起源といえるものです。

 

 

 

 

 

華佗は、後漢末期の名医で、とくに外科に優れ、麻沸散という麻酔薬を用いて
開腹手術を行いました。

 

 

 

 

 

また華佗は、虎・鹿・熊・猿・鳥の姿勢や動作から五禽戯という導引法(健康体操)を
編み出しました。



 

 

 

 

 

華佗は魏の曹操の持病の頭痛の治療にあたり、これを鍼で止めました。
しかし後に曹操は華佗を自分の命を狙うものと邪推し、投獄したうえ、
ついには殺してしまいました。

6世紀末から10世紀の初めにおよぶ隋・唐文化は医学上も大きな成果を上げました。
シルクロード経由でインドや西域医学との交流もみられ、文献や薬物輸入も増えました。
隋代の代表医学書に巣玄方らが編集した「諸病源候論」50巻があります。
これは病理診断の書で、1720余りの証候が列挙され今でいう
内科・外科・婦人科・小児科などの疾病や原因や病理と症状が説明されいています。

 

 

 

 

 

○唐代
唐代には、医事制度が確立して、医師の階級と制度が定められ、医師の教育と国家試験についての
規定ができました。この唐の制度は奈良時代の日本にも模倣されました。
唐の代表遺書は孫思邈(そんしばく)の「千金方」30巻です。

 

また848年に見素女の著した「五臓六腑図」は現在最古の解剖図
とされています。
これは内臓に宿る神々を表現した道教的色彩の強い図であり、
現代の解剖図とは異なります。

 

 

 

 

9世紀半ばには、藺道人(りんどうじん)が現在最古の傷科(整形外科)書の一つ
「仙授理傷続断秘法」を著しました。そこには、解放骨折や肩関節脱臼の治療が記載されています。

この時代鍼灸の専科が独立して、
制度上「針士」の官名が出現しました。

隋・唐の時代には按摩療法も発展し、唐代には按摩術は独立した一科になりました。

 

 

 

 
○宋代
宋代(の中医学は、宋王朝が儒教を範としたためもあって
国家事業的要素の強い医学となりました。
鍼の治療法も北宋になって盛んとなったのも皇帝の保護に基づきます。
北宋の皇帝三代(仁宗・英宗・神宗)医学振興に力を入れ、「難経」「素問」「傷寒論」
「金匱要略」「千金方」「鍼灸甲乙経」「「脈経」などを相次いで校訂刊行しました。

 薬物学については、梁の陶弘景(とうこうけい)が「神農本草経」から神仙思想を除いて
実用薬物学「本草集注」をつくり、唐の高宗がそれを改訂し659年に「新修本草」20巻を
編纂しました。これは中国最初の公定本草(薬局方第1版に相当)で、
集載品目は850種(うち増補115種)を数え、1513極彩色の図譜もついていました。

さらに宋代には、これまでにはない盛況をしめし、およそ6回の公定本草の改定が行われました。
その後は1590年に李時珍(りじちん、明代を代表する医師・1518~1593)が本草学に
大改革を加えるまで大きな変化はありません。

李時珍は瓦硝覇(がしょうは)(現在の湖北省圻州鎮)の生まれで、
医師であった父について医学を勉強し、とくに医薬について精通しました。
日夜・遠近・貧富に関わらず治療に当たっていたため、
当地の人から「瓦硝覇太夫」と呼ばれ称賛、感謝されていました。

李時珍の評判を聞いた王、朱英けん(しゅえいけん)に官職に任じられます。
その王の子が気厥病(きけつびょう)を患ったとき、多くの医者は無策であったのに対し、
時珍はこれを治し、感謝した王から朝廷に推薦されます。

*気のめぐりが悪くなって昏倒する病気

太医院で1年仕事をした後、官の職を辞して故郷に戻り医療・著述に励みました。

宋代には、国定処方集「太平聖恵方」100巻が
刊行されました。これは全国から集めた効験のある処方16,834方を1670部門に分類したものです。
また、1063年には、宋の首都開封(かいふう)の2寺に救療施設として病院が建設されました。
ここでは、50棟の病室に300人ずつの貧しい病人を
収容しました。また、1076年には「太医局」が創設され、
ここで有効繁用の処方を集めた「太医局方」10巻を編纂し、地方に公布し国民に交付しました。
これがもととなり、地方のおもな都市に
「安済坊」という救護
療養施設が設置されました。

 

 

この時代、青銅製人体模型が作製されました。
鍼灸医術の基本となる経穴小孔のあるもので、
医学教育や医師国家試験用に使われました。
この同人は金・元・明へと伝えられ、
中国中世の医学教育に重要な役割を果たしました。

 

 

 

○金元代
金元代の医学(金元医学)とは、宋王朝を滅ぼした女真族が建国した金と、その金を滅ぼして中国を征服したモンゴル族の元の時代の医学をいいます。この時代には、医学思想に大きな変化・発展が
あったために、とりわけ「金元医学」と呼ばれます。
これまでの中医学を大まかに復習すると、漢代(紀元前202~紀元後8年)に医学書「黄帝内経」によって医学理論が確立し、後漢(25~220年)に「傷寒論」が著され、薬物療法が集大成されます。以後、この二つの医学書に基づいて医学が行われ、宋代(960~1279年)になって、運気学説が医学に取り入れられました。運気学説とは、病気の原因として五運(木・火・土・金・水)と
六気(風・寒・暑・湿・燥・火)を重視する考え方で、病気の原因には内因と外因があり、
気象の変化を表す六気は外因にあたるといったものです。

・漢代(紀元前202~紀元後8年):医学書「黄帝内経」によって、医学理論が確立
・後漢(25~220年):に「傷寒論」が著され、薬物療法が集大成される
・宋代(960~1279年):運気学説が医学に取り入れられる

金元時代には理論と臨床とが一体化し、独自の主張を持つ者が多く登場し、
それぞれの学派を形成していきます。医学思想が発展した背景には、印刷術が発達し医学書を入手
しやすくなったことや、皇帝が医学の発展を願い、医学の専門書の編集・出版の熱心だった
ということがあります。以上のように、金元時代は中医学の歴史において特筆すべき時代であり、「金元の四大家」といった医家が登場します。

金元の四大家
・劉完素(りゅうかんそ・1110~1200):寒涼派
・張従正(ちょうじゅうせい・1156~1228):攻下派
・李 杲(りこう・1180~1251):温補派
・朱振亨(しゅしんきょう・1281~1358):養陰派


金代(1115~1234)の医学の代表は、師匠・劉完素(りゅうかんそ)とその後継者・張従正(ちょうじゅうせい)の劉張(りゅうちょう)学派です。

劉完素(1110~1200)は、宋時代に即席医者がはびこったことを憤慨
「古代医学に帰れ」と主張し、「素問」の277文字に対して、
2万文字の注釈を加えた「素問玄機原病式」を著しました。
疾病の原因は火熱によるものが多く、これに対抗する水の精は腎にある
として、腎の力を補い、火を制しようという治療原則を
打ち出しました。

このため、瀉火剤などの寒性・涼剤の薬物をよく用いたために
「寒涼派」と呼ばれましたが、
寒涼剤だけを用いたわけではありません。

 

また、張従正(1156~1228)は、劉完素のやり方に改良を加え、発汗・嘔吐・通下の薬剤を用いる療法も行いました。これは、風・寒・暑・湿・燥・火などの気候(天の邪)や泥や汚水(地の邪)、また酸・苦・甘・辛・鹹などの極端に濃い味は病気の原因になり、

病気になったときは、発汗・吐法・排便の三つ方法で、
速やかにこれを体外に排出すべきというものです。
このため「攻下派」と呼ばれました。

 

 

 

「黄帝内経」「難経」などの古典医学を深く研究した李杲は、
当時の社会環境が不安定だったために、精神的なストレス飲食の不摂生
不規則な生活避暑・防寒に対しての弱さなどによって起きた病気が非常に
多く、これらの病気は傷寒論などの治療法では、効果がないということに
着目し、これらを治療するための理論として「内傷説」を唱えました。
その際に重要な役割を果たすのが、五臓六腑の中の脾と胃であって、この二つの臓腑がやられると百病が生じるとし「脾胃論」を著し、処方もそれに基づいた
ものを考案しました。
今日でも非常に多く使われる「補中益気湯」は李杲の考え出したものです。
また、流行病・化膿性外科疾患・眼病の治療も得意としていました。

 

ちなみに日本では、室町時代に田代三喜(たしろさんき)が明に行って、李朱医学を学び、
曲直瀬道三(まなせどうざん)に受け継がれて、以後江戸時代の古方派が出現するまで、
日本医学会の主流となります。曲直瀬道三は戦国時代の医師で、田代三喜(たしろさんき)、
永田徳本(ながたとくほん)とならんで医聖と称されました。


朱振亨(1281~1358)は「陰不足説」を唱えました。朱は臨床経験から、陰は乾きやすく不足傾向にあり、病気治療の根本は、陽を鎮め不足している陰を補うことが大切と主張し、その説は「養陰派」とよばれました。

 

 
○明代・清代
明代(1368~1644)・清代(1644~1911)の中医学は、宋・金・元のものを引き継ぎ、
大きな変化はみられませんが、注目すべきは李時珍による「本草綱目」の刊行、温病学の発展、
「四庫全書」の完成です。

 

李時珍(1518~1593)は明を代表し、世界に誇る薬学者です。
湖北省に生まれ、医師であった父李言聞(りげんぶん)の助手を
しながら育ちますが、言聞は自ら医学書を執筆するほどの名医
でしたが当時の医者の社会的地位の低さから、息子が自分と同じ職につくことに反対、科挙に合格し官僚なることを望んでいました。
しかし、病弱だった時珍は自分と同じ苦しみを持つ人たちを助けたいとの思いから医師への道をあきらめられず、23歳のとき、ついに医学を学ぶことを許されます。

中国の本草学は伝説上の人物、神農がつくったとされる
「神農本草経」を原点として、多くの増補がなされましたが、時代が経つにつれて名称や薬効などの誤りが含まれるようになっていきました。李時珍はこれを憂慮し新しい本草学書の編纂を志します。薬となる原材料を採集するために、全国を巡り27年の歳月をかけて1578年、61歳のときに
「本草綱目」52巻を完成
しました。参考にした書物は800種、1892種の動植物から鉱物にわたる
薬物のこと、また薬品ごとに、その性質や味、産地、形、採集方法、製薬過程、薬理研究、方剤配合などについて記載されています。現在までに数十版を重ね、徳川家康にも献上されています。
日・朝・英・仏・独・ラテン語に翻訳され、中薬学を論ずる上で欠かすことのできない文献となっています。

明・清代には、伝染病が流行することが非常に多かったために温病(熱病)に対する知識が蓄積
されました。温病とは一般に、突然発病し、容態の変化が早く、流行性を持ち、伝染性が強いなどの特徴を有する病のことですが、非感染性のものを含む場合もあります。
温病学派は、冬には傷寒病、春には風温病、夏には暑温病と湿温病、秋には燥病と伏暑病など、
季節と病の間には一定の規則があり、気候の異常によって温病が起こると考えていました。
中薬や漢方薬は、慢性疾患にこそ効果を発揮するものと考えられている一面もあり、現代では実際にそのように用いられることがほとんどですが、抗生物質などがまだなかった時代、
生薬の組み合わせによって、温病と呼ばれる病気に対処していました。
1746年、葉桂(ようけい)により「温病論」が刊行されました。

中薬 :中国において、中医学の考えに基づき生薬の組み合わせによって処方される薬
漢方薬:漢の時代に日本に伝来し、日本で発達した薬

現在、南方の広東省では温暖な気候なために、温病が発生しやすい条件が整っている
ということから、中医学系の大学では温病について研究しているところが多くあります。

○中医と西医
19世紀になると西洋医学を研究して中西医学の交流をはかり、中医学を向上させようとする思想が生れました。これは西洋医学の解剖整理によって中医理論を証明しようというものです。
一方、清末・中華民国初期の自由主義者や共産主義者などの近代主義の間には、国家の近代化の一環としての伝統医学抹殺論が熱心に論議されるようになりました。

民国3年(1914)、政府は中医中薬の廃止を布告しましたが、これに対して全国の中医薬界は「医薬救亡請団」を組織して反対運動を展開しました。このときから36年間、中華人民共和国が成立し、伝統医学の再検討が提唱される1950年までは中医学の受難時代となります。

1934年、中国紅軍(共産党軍)は国民党軍の攻撃を避けて、長征
(南の根拠地を脱出し北の根拠地の延安に向かう2年間12,500㎞の強行軍)
に出発しました。この途上で紅軍は、兵士の医療にあたった民間の中医たちや、
現地調達した中薬(生薬)や鍼灸などの実力を知ることになりました。
こうして中医学は共和国成立後も国家の強い支持を受けるようになります。

このようなことから衛生部(厚生労働省)は中医と西医を結合させるという医療行政の指導理念を
打ち出しました。中西医結合とは個人的にも体系的にも両者の結合を図るもので、
中医学を主とする医師は西洋医学を学び、西洋医学を主とする医師は中医学を学び、
そのうえで両医学の長所を生かし、短所を排するというものです。

1978年、WHO(世界保健機関)は「西暦二千年までに世界のすべての人に健康を」という
「アルマ・アタ宣言」を打ち出しました。宣言は、そのためには各国が自国の文化社会的背景に
基づいた保健・医療のシステムをつくること、自国の伝統医学を応用するシステムをつくりあげる
ことの重要性を強調しました。中医学では、この意味でも評価されており、WHOのセミナーでも、急性気管支炎・気管支喘息・白内障・十二指腸疾患・細菌性下痢・三叉神経痛・めまい・腰痛など、西洋医学の43の病気や症状が針灸療法の適応症としてあげられています。

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当院は疲労、冷え症、不眠症の3大慢性疾患専門の治療院です。
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